静かな違和感
山田真吾、38歳。由利本荘市(ゆりほんじょう)の中堅メーカーに勤める総務課の会社員だ。その朝、総務課の給湯室で後輩の佐伯がコーヒーをこぼして固まっていた。
会議室の火種
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| テイクアウトのコーヒー |
「やっちゃいました」
「まあまあ、コーヒーは逃げても、床は逃げないから大丈夫だ」
真吾は笑いながら雑巾を差し出す。
佐伯はほっとした顔で受け取り、周りの空気もふわっと和らぐ。総務課の女性陣がひそひそと話す。
「山田さんって、ほんと気が利くよね」
「うん、あの人がいないと朝が始まらないわ」
真吾は聞こえないふりをしながら、心の中で苦笑した。
(いや、俺がいなくても朝は来るよ。)
でも、そう言うと場がまた気まずくなるので、言わない。言わないことに慣れすぎて、もう反射のようになっている。
午前の会議。営業部長と課長が、資料の数字をめぐって険悪になりかけていた。
「だから、この数字の根拠が薄いんだよ!」
「いや、現場の感覚としては」
声が少しずつ大きくなる。周囲がそわそわし始める。その瞬間、真吾の体は勝手に動いた。
「すみません、コーヒー追加で淹れましょうか?ちょっと休憩入れません?」
場が止まり、空気が緩む。部長が「まあそうだな」と言い、課長も「すみません」と頭を下げる。会議室の空気が、いつもの丸い空気に戻った。だが真吾は、心の奥で小さくため息をついた。
(俺は、何をしたかったんだっけ。)
会議の内容より、空気の調整に意識が向いてしまう。それが癖になっている。
昼休み、屋上のベンチで弁当を広げると、同期の木下が隣に座った。
「山田、お前ってさ、ほんと会社の潤滑油だよな」
「潤滑油って俺、機械か」
「いや、褒めてるんだって。みんな助かってるよ」
木下は悪気なく言う。むしろ善意100%だ。真吾は笑って返す。
「まあ、そう言ってもらえるならありがたいけどね」
でも、胸の奥の穴は埋まらない。
(助かる存在か。いないと困る人ねぇ。)
その言葉は、嬉しいはずなのに、どこか自分が消えていく感じがする。その日の帰り道。雨上がりのアスファルトが街灯に光っていた。傘を閉じた瞬間、ふと胸に浮かんだ。
「俺、ずっとあの家の延長で生きてるのかもしれないな」
子どもの頃の記憶が、雨の匂いと一緒に蘇る。父は短気で、母は気を遣いすぎる人だった。姉は自由奔放で、弟は泣き虫。夕食の食卓は、いつも誰かが怒り、誰かが泣き、誰かが黙り込む。その真ん中で、真吾は箸を置き、そっと言った。
「まあまあ、今日はさ。ほら、これ美味しいよ」
その一言で場が落ち着くことを、家族は知っていた。だから、いつの間にかそれが真吾の役目になった。
(俺が我慢すれば丸く収まる。)
その思いは、子どもながらに染みついていた。雨上がりの夜風が、真吾の頬を撫でる。
「でも、ここはもうあの家じゃないんだよな」
誰かが不機嫌でも、誰かが怒っても、自分が間に入らなくても、世界は壊れない。そう思った瞬間、胸の穴に少しだけ温かい風が入った。真吾は深呼吸をして、家路についた。玄関を開けると、妻の美咲が顔を出した。
「おかえり。今日は遅かったね」
「ちょっとね。会議が長引いて」
リビングでは、小学生の娘・ひよりが宿題を前にうなっている。
「パパぁ算数がわからん」
美咲が注意しようとした瞬間、真吾はいつものように口を開きかけた。
(待て。ここはあの家じゃない。)
そう思い直し、ゆっくりとひよりの隣に座った。
「ひより、どうしたい?」
ひよりは驚いた顔をした。
「今日は疲れたから、先にお風呂入りたい」
「そっか。じゃあそうしようか」
美咲が微笑む。
「珍しいね、真吾が整えないの」
「まあ、たまにはね」
真吾は照れくさそうに笑った。胸の穴が、ほんの少しだけ小さくなった気がした。
やらない勇気
翌朝。山田家の食卓では、いつものように美咲がトーストを焼き、ひよりが牛乳をこぼし、真吾がそれを拭こうとして手を止めた。
「ひより、自分で拭ける?」
ひよりは一瞬ぽかんとしたが、すぐにタオルを取りに走った。美咲が目を細める。
「珍しいね。いつもなら真吾が真っ先に動くのに」
「まあ、ひよりも大きくなってきたしね」
言いながら、真吾は内心そわそわしていた。
(大丈夫か?泣かないか?怒らないか?)
しかし、ひよりはケロッと拭き終え、
「できたー!」と誇らしげに胸を張った。
美咲がくすっと笑う。
「ほら、ちゃんとできるじゃない」
真吾は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
(俺が全部やらなくても、家族は壊れない。)
その実感が、少しだけ現実味を帯びた。
その日の午後。総務課では、コピー機の使い方をめぐって、後輩2人が言い合いを始めていた。
「だから、先に予約入れたのは私なんですって!」
「いや、俺も急ぎなんだよ!」
いつもなら、真吾はすぐに間に入る。だが今日は、コピー機の横でそっと様子を見守った。
(どうなる?爆発する?いや、しないよな?)
すると、意外な展開が起きた。
「じゃあ、俺が先に1枚だけやって、残りは譲るよ」
「え、いいの?じゃあ私も半分は後でいいよ」
2人は勝手に折り合いをつけ、コピー機は平和に稼働し始めた。真吾は思わず天井を見上げた。
(え、俺いらなかった?)
そこへ、同僚の木下が肩を叩く。
「山田、お前が入らないの珍しいな。どうした、悟りでも開いた?」
「いや、ちょっと実験中」
「実験?」
「俺がいなくても世界は回るのかっていう」
木下は吹き出した。
「回るに決まってるだろ!」
真吾もつられて笑った。でも、その笑いの奥で、ほんの少しだけ肩の荷が軽くなった。その夜。夕食の食卓で、美咲がふと切り出した。
「ねえ真吾、最近ちょっと変わったよね」
「そう?」
「うん。なんか全部背負わない感じ?」
ひよりも頷く。
「パパ、前より優しいよ」
「え、前は優しくなかったの?」
「違うよ!なんかね、パパが急いでない感じ!」
真吾は思わず笑った。
「急いでない、ね」
確かに、以前は常に場を整えるために先回りしていた。その緊張が少し抜けたのかもしれない。美咲が箸を置き、真吾をじっと見つめた。
「ねえ、無理してない?」
その問いに、真吾は一瞬だけ言葉を失った。
(無理、してたんだろうな)
「大丈夫。ちょっと、考え方を変えてみようかなって思って」
美咲は安心したように微笑んだ。
「いいと思うよ。真吾は優しいけど、優しすぎるところあるから」
ひよりが唐突に言った。
「パパ、優しすぎてふにゃふにゃマンだもんね!」
「誰がふにゃふにゃマンだ!」
家族の笑い声が広がる。その音が、真吾の胸の穴を少しずつ埋めていく。翌日。総務課で、営業部の山崎が怒鳴込んできた。
「この書類、誰がチェックしたんだ!数字が違うじゃないか!」
総務課の空気が一気に凍る。
(来た)
いつもなら、真吾がすぐに間に入り、山崎の怒りを受け止め、周囲を守る。だが今日は、ぐっとこらえた。
(俺が入らなくても大丈夫のはず)
しかし、山崎の怒りは収まらず、後輩の佐伯が青ざめている。
(いや、これ無理だわ)
真吾は結局、間に入った。
「山崎さん、落ち着きましょう。数字はすぐ確認しますから」
山崎は深呼吸し、怒りが少しずつ引いていく。場が落ち着いたあと、佐伯が申し訳なさそうに言った。
「すみません山田さん、やっぱり頼りになります」
真吾は苦笑した。
(やっぱり俺、完全には抜けられないんだな)
でも、以前とは違う。全部を背負うのではなく、必要なときだけ動くという感覚が芽生えていた。その夜、真吾はベランダで缶ビールを開けた。
(俺が全部やらなくても、世界は壊れない。でも、必要なときは動いてもいい。その境界線を、今は探してるんだな)
夜風が心地よく吹き抜ける。美咲が顔を出した。
「ねえ、明日ひよりの授業参観なんだけど、一緒に行ける?」
「もちろん」
「よかった。ひより、パパが来るって聞いて喜んでたよ」
真吾は缶を置き、空を見上げた。
(俺にも、ちゃんと居場所があるんだな)
そんな実感が、静かに胸に広がった。
授業参観
土曜日の朝。ひよりはランドセルを背負いながら、妙にそわそわしていた。
「パパ、ちゃんと来るよね?」
「行くよ。約束しただろ」
「ほんとに?途中で会社から呼び出されたりしない?」
「そんなに俺は呼び出されてるのか」
美咲が笑いながらエプロンを外す。
「ひより、パパは今日は調整役お休みデーなんだから」
「ちょうせいやく?」
「気にしなくていいよ」
真吾は苦笑しながら、ネクタイを締め直した。
(授業参観なんて久しぶりだな)
どこか胸がざわつく。子どもの頃の家族の視線を思い出すからかもしれない。教室に入ると、保護者たちがざわざわと集まっていた。ひよりは真吾の手をぎゅっと握る。
「パパ、あそこ座っててね」
「はいはい」
授業が始まると、担任の先生が言った。
「今日は、子どもたちに自分の好きなところを発表してもらいます」
(好きなところ?)
真吾は思わず背筋を伸ばした。ひよりの番が来た。前に立ち、深呼吸してから言った。
「わたしの好きなところはえっと」
一瞬、教室が静まる。
「泣きそうになっても、ちゃんと助けてって言えるところです!」
教室がざわっとした。真吾は固まった。
(え、そんなこと言うの?)
ひよりは続けた。
「前は、泣きそうになっても言えなかったけどパパがどうしたい?って聞いてくれたから、言えるようになりました!」
保護者たちが一斉に真吾を見る。
(やめてくれ恥ずかしい)
美咲は肩を震わせて笑っている。先生が優しく言った。
「素敵ですね。ひよりさん、お父さんに感謝してるんですね」
ひよりは照れながら席に戻った。真吾は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
(俺、ちゃんと父親やれてるのかな)
そんな思いが、ふっと浮かんだ。授業参観の帰り道。ひよりは真吾の手を握りながら言った。
「パパ、最近ね、なんか優しくなった」
「前は優しくなかったの?」
「違うよ!なんかね急いでない感じ!」
(またそれか)
真吾は笑った。
「パパね、ちょっと考え方を変えてみてるんだよ」
「かんがえかた?」
「うん。全部をパパがやらなくても、みんなちゃんとできるって思うようにしてる」
ひよりはしばらく考えてから言った。
「じゃあね、パパ。わたしも、パパに助けてって言っていい?」
真吾は立ち止まった。
「もちろんだよ」
ひよりは満足そうに笑った。月曜日。総務課に出社すると、課長が眉間にしわを寄せていた。
「山田くん、ちょっといいか」
「はい?」
「営業部の山崎さんが、また怒ってる」
(またか)
「でも今回は、君に入ってほしくないんだ」
「え?」
課長は腕を組んだ。
「山崎さん、最近山田くんに甘えてるって声があってね。自分で責任を持って動いてもらわないと困るんだよ」
(なるほど)
つまり、真吾が調整しすぎていたということだ。
「だから今回は、あえて放っておこうと思う」
「わかりました」
そう言ったものの、総務課の空気はピリピリしている。
(大丈夫か?)
しばらくすると、山崎が自分で資料を確認し、「俺の勘違いだったわ!」と大声で謝りに来た。総務課がざわつく。木下が小声で言った。
「山田、お前が入らないと、山崎さんってこんな感じなんだな」
「まあ人間、意外と自分でなんとかするもんだよ」
「悟りすぎだろ」
2人で笑った。その夜。夕食後、真吾は美咲とキッチンで皿を洗いながら話した。
「今日ね、課長に山田くんが調整しすぎてるって言われたんだ」
「へえ。やっと気づいたのね、会社の人たち」
「いや、俺もやりすぎてたんだと思う」
美咲は手を止めて、真吾を見た。
「ねえ、真吾。あなたが調整役じゃない自分でいてくれるの、私は好きだよ」
真吾は照れくさくて、皿を落としそうになった。
「そ、そう?」
「うん。なんかね真吾が真吾でいるって感じがする」
その言葉が、胸に静かに染み込んだ。その夜、真吾はひとりでノートを開いた。
(俺みたいに調整役で疲れてる人って、きっと他にもいるよな)
授業参観でのひよりの言葉。職場での課長の言葉。美咲の言葉。それらが重なり、ひとつの思いが浮かんだ。
(いつか、こういう人たちが安心できる場所を作れたらいいな)
まだぼんやりとした願い。でも、確かに心の中に灯った。真吾はペンを置き、深呼吸した。
「よし。まずは俺自身が変わるところからだな」
夜風がカーテンを揺らし、静かな決意を後押しした。
新しい対応
真吾が必要なときだけ動くスタイルに変えてから数週間。総務課では、妙な現象が起きていた。
「山田さん、最近なんか静かじゃない?」
「うん、なんか物足りない」
「いや、仕事は回ってるんだけどさ」
木下がぼそっと言った。
「山田ロスだな」
「ロスって俺、死んだの?」
「違う違う。なんかこう山田の気配が薄いんだよ」
(気配ってなんだ)
真吾は苦笑した。しかし、総務課の女性陣は深刻だった。
「山田さん、最近あんまり間に入ってくれないから」
「なんか、私たちで解決しなきゃって感じがして」
「それが逆にストレスで」
(いや、それはそれでどうなんだ)
真吾は心の中でツッコんだ。課長が真吾を呼んだ。
「山田くん、最近調整しすぎないようにしてるだろ?」
「はい、まあ」
「いいと思うよ。ただ周りがざわついてるから、少しずつ慣らしていこう」
(俺、家電の新機能か?)
真吾は苦笑しながら頷いた。その日の夕方。仕事を終えて帰宅すると、美咲が電話を切ったところだった。
「真吾、お義母さんが来たいって」
「えっ、いつ?」
「明日」
「急だな!」
美咲は肩をすくめた。
「まあ、いつものことよ。ひよりの顔が見たいんだって」
(義母苦手ではないけど、気を遣うんだよな)
真吾は内心で身構えた。
翌日。義母・杉本澄江(すみえ)は、玄関を開けるなり大声で言った。
「ひよりちゃーん!ばあば来たわよー!」
ひよりが飛びつき、美咲が笑顔で迎える。真吾は丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、お義母さん」
「真吾さん、最近仕事どうなの?ちゃんとやってる?」
(ちゃんとやってる?は地味に刺さるんだよな)
「まあ、ぼちぼちですね」
「ぼちぼちって何よ。男はね、バリバリ働かないと!」
(価値観が昭和だ)
美咲が慌てて話題を変えた。
「お母さん、お茶淹れるね」
「ありがとう。あ、真吾さん、ちょっと荷物運んで」
「はい」
(結局、俺が動くんだな)
リビングでお茶を飲みながら、義母がふと真吾を見た。
「真吾さん、なんか最近雰囲気変わった?」
「え、そうですか?」
「うん。なんかこう力が抜けたっていうか」
美咲が笑った。
「そうなの。最近ね、真吾が全部背負わないようになってきて」
義母は目を丸くした。
「えっ、真吾さんが?あの真面目な?」
(あの真面目なってなんだ)
義母は腕を組んで言った。
「でもね、真吾さん。家族のために頑張る男って、素敵よ?」
(いや、頑張ってないわけじゃないんだけど)
真吾は苦笑しながら言った。
「もちろん頑張りますよ。でも最近は、ちょっと考え方を変えてみてるんです」
義母が身を乗り出した。
「どう変えたの?」
真吾は一瞬迷ったが、初めて自分の気持ちを言葉にした。
「全部を自分がやらなくても、家族はちゃんと家族でいられるんだなって」
義母は目をぱちぱちさせた。美咲がそっと真吾の手に触れた。
「ね、いいでしょ?」
義母はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「あら、いいじゃない。真吾さん、やっと普通の男になってきたのね」
「普通?」
「前はね、ちょっと頑張りすぎてて心配だったのよ」
真吾は思わず固まった。
(え、義母さんそんなふうに思ってたの?)
義母は続けた。
「真吾さん、優しいけど、優しすぎるとね自分がいなくなっちゃうのよ」
その言葉は、真吾の胸に深く刺さった。
(俺のこと、見てくれてたんだ)
しかし、義母は続けた。
「でもね、真吾さん。調整しない男ってのも、それはそれで扱いづらいのよ?」
「え、扱いづらい?」
「だって、誰が場を整えるの?」
(結局そこか!)
美咲が吹き出した。
「お母さん、それ言ったら真吾が可哀想だよ」
「だって本音だもの」
義母はケロッとしている。真吾は苦笑しながらも、どこか安心していた。
(義母さん、なんだかんだで俺のこと気にかけてくれてるんだな)
義母が帰ったあと。美咲と真吾はソファに座っていた。
「お母さん、相変わらずだったね」
「うん。でもなんか嬉しかったよ」
「え?」
「だって、真吾の変化をちゃんと見てくれてたじゃない」
真吾は静かに頷いた。
「俺さ、最近、自分の気持ちを言うのが怖くなくなってきた」
美咲は微笑んだ。
「それが一番嬉しいよ」
真吾は、美咲の肩にそっと頭を預けた。
(俺は、ちゃんと輪の中にいるんだな)
その実感が、静かに胸に広がった。
自分の居場所
真吾が調整しすぎないスタイルに変えてから、職場は少しずつ落ち着いてきた。しかし、全員が歓迎しているわけではなかった。その日の昼休み。後輩の佐伯が、珍しく不満げな顔で近づいてきた。
「山田さん最近、ちょっと冷たくないですか?」
「え、俺が?」
「はい。前はもっとこう助けてくれたじゃないですか」
(ああ、来たか)
佐伯は続けた。
「この前も、僕が資料で困ってたのに、まず自分で考えてみたら?って言いましたよね」
「うん、言ったね」
「なんか寂しいです」
(寂しいって俺は佐伯の母親か?)
真吾は苦笑しながら言った。
「佐伯、俺は助けないわけじゃないよ。ただ、全部を俺がやると、君の成長の邪魔になると思ってさ」
佐伯はむくれた顔で言った。
「成長とかいいんで、助けてほしいんですけど」
(いや、そこは頑張れよ)
木下が横から口を挟んだ。
「佐伯、お前は甘えすぎなんだよ。山田は保育士じゃないんだぞ」
「ひどい!」
職場に笑いが起きたが、真吾は少し胸が痛んだ。
(俺の変化は、誰かにとって喪失にもなるんだな)
午後。営業部の山崎が、また怒鳴り込んできた。
「総務!この書類、誰がチェックしたんだ!」
(またか)
しかし、今回は様子が違った。山崎の怒りは、総務課全体に向けられていた。
「最近、山田くんが全然動かないから、仕事が回らないんだよ!」
(え、俺のせい?)
課長が冷静に言った。
「山崎さん、それは違いますよ。山田くんが全部やっていたから、皆さんが甘えていたんです」
山崎は言葉に詰まった。
「そ、それは」
「今回は営業部のミスです。自分たちで確認してください」
山崎はしぶしぶ引き下がった。真吾は課長に小声で言った。
「すみません、俺の変化で混乱させてしまって」
課長は首を振った。
「いいんだよ。むしろ、これが正常なんだ。君が背負いすぎていたんだよ」
その言葉に、真吾は胸が熱くなった。
その日の夕方。学校から電話があった。
「ひよりちゃんが、ちょっと泣いてしまって」
真吾と美咲は急いで学校へ向かった。教室では、ひよりが涙目で座っていた。
「パパぁ」
「どうした?」
「今日ね、友だちにひよりはすぐ助けてって言うって言われたの」
(ああ)
美咲が優しく背中をさする。
「ひより、それでどうしたの?」
「助けてって言っていいんだよって言った」
真吾は思わず笑った。
「いいじゃないか。ひよりらしいよ」
「でもその子、怒っちゃった」
ひよりはしょんぼりしている。真吾はひよりの目線に合わせてしゃがんだ。
「ひより。助けてって言えるのは、強いことなんだよ。でもね、相手が怒ったときはどうしたの?って聞いてみてもいいかもな」
ひよりは小さく頷いた。
「うん。やってみる」
真吾は、ひよりの成長を感じて胸が熱くなった。その夜。ひよりが寝たあと、真吾はベランダで缶ビールを開けた。
(俺は何を守りたかったんだろう)
家族の調整役。職場の潤滑油。誰かの間に立つ人。それは、誰かのためだったのか。それとも、自分の居場所を失わないためだったのか。美咲がベランダに出てきた。
「今日、ひよりのことありがとうね」
「いや、俺は何も」
「ううん。真吾が変わってくれたから、ひよりも助けてって言えるようになったんだよ」
真吾は黙って夜空を見上げた。
「俺さ、誰かのために動くのは好きなんだ。でも、それが自分の居場所を守るためになってた気がする」
美咲は静かに頷いた。
「うん。でもね、真吾。あなたの居場所は、誰かを助けることでしか作れないわけじゃないよ」
真吾は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。その夜、真吾はノートを開いた。
(俺みたいに、調整役で疲れてる人、きっとたくさんいるよな)
授業参観でのひよりの言葉。職場での反発。ひよりの涙。美咲の言葉。すべてがつながっていく。
(俺、やっぱり場所を作りたい)
真吾はノートに書いた。
「調整役の人が、安心して話せる場所を作る」
それは、まだ形にならない夢。でも、確かに心の中で光っていた。
安心する場所
日曜日の朝。真吾は、いつもより早く目が覚めた。
(今日だ)
ついに、初めての調整役の人向けミニセミナーを開く日だった。といっても、参加者は5人。会議室も、近所の公民館の小さな和室だ。それでも、真吾にとっては大きな一歩だった。美咲がキッチンから顔を出した。
「緊張してる?」
「まあちょっとね」
「大丈夫。真吾ならできるよ」
ひよりも寝ぼけ眼でやってきて、真吾の手を握った。
「パパ、がんばってね。助けてって言ってもいいんだよ?」
「ありがとう」
家族の言葉が、胸にじんわり染みた。開始10分前。畳の匂いが落ち着く小さな和室に、ぽつぽつと人が集まってきた。
- 職場で聞き役になりすぎて疲れた女性
- 家族の間に立ち続けてきた男性
- 友人関係で調整役をやめられない大学生
- 介護で家族の感情を背負い続けてきた人
- そして、後輩の佐伯(なぜか来た)
「山田さん、僕も来ちゃいました」
「いや、君は来なくてよかったんだけど」
「だって、気になるじゃないですか」
(まあ、いいか)
真吾は深呼吸をして、みんなの前に座った。
「今日は来てくれてありがとうございます」
声が少し震えた。
「僕はずっと、誰かの間に立つことで、自分の居場所を守ってきた気がします。でもそれって、すごく疲れるんですよね」
参加者たちが静かに頷く。
「誰かが怒ってないか。誰かが孤立してないか。誰かと誰かがぶつかりそうじゃないか。ずっと周りを見て、場を整えて」
言葉が自然と溢れていく。
「でも、最近気づいたんです。ここはあの家じゃないって」
和室の空気がふっと柔らかくなった。
「僕が間に入らなくても、世界は壊れない。我慢しなくても、関係は終わらない。そして自分の気持ちを言っても、誰も離れていかない」
参加者の一人が目を伏せた。
「だから今日は、我慢ではなく、安心から居場所をつくる、そんな話をしたいと思います」
真吾は、初めて自分の言葉で話していた。セミナーが進むにつれ、参加者たちが少しずつ話し始めた。
「私、家族の中でずっと聞き役で。でも、本当は誰かに聞いてほしかったんです」
「僕は、友だちの間で調整役をしてるときだけ、自分が必要とされてる気がして」
「私もいないと困る人でいようとしてたのかも」
それぞれの言葉が、真吾の胸に響いた。
(ああ俺だけじゃなかったんだ)
佐伯がぽつりと言った。
「山田さん、僕、山田さんが助けてくれるから安心してたんです。でも、それって甘えてただけだったのかもしれません」
真吾は笑った。
「甘えていいんだよ。でも、自分の足でも立てるともっと楽になるよ」
佐伯は涙目で頷いた。最後に、真吾はこう言った。
「調整役って、優しい人が多いんです。でも、優しい人ほど、自分を後回しにしてしまう。だからどうか、自分の居場所を安心から作ってください」
参加者たちは静かに拍手した。その音は、真吾の胸の穴をそっと埋めていくようだった。セミナーが終わり公民館を出ると、美咲とひよりが待っていた。
「どうだった?」
「パパ、がんばった?」
真吾は照れくさく笑った。
「うん。なんとかね」
美咲が真吾の手を握った。
「真吾、お疲れさま。あなたが自分の居場所を見つけてくれて、私は嬉しいよ」
ひよりも手を重ねた。
「パパ、これからも助けてって言ってね」
真吾は2人の手をぎゅっと握った。
(俺はちゃんと輪の中にいる)
その実感が、胸いっぱいに広がった。その夜、真吾はノートを開いた。
「安心から居場所をつくる」
その言葉を、ゆっくりと書き込む。
(俺は、これを続けていきたい)
家族のためでも、誰かのためでもなく。自分がそうしたいと思えるから。真吾は静かにペンを置いた。窓の外では、夜風が優しく吹いていた。

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