ティラノザウルス①
北海道の端っこの町、風が吹けばすぐに海の匂いが届く小さな家に、小学三年生の陽斗(はると)と、母の美咲、そして父の大輔が暮らしていた。冬が終わりかけたある夕方。ストーブの上では鍋がぐつぐつと音を立て、窓の外ではカラスが帰り道を急いでいる。
テーブルの上のスマホ
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| ティラノザウルス |
陽斗はランドセルを放り出すと、靴下のまま台所へ走ってきた。
「ねえ、お母さん。今日ね、学校でね」
美咲は、エプロンのポケットからスマホを取り出し、親指で素早く画面を滑らせた。仕事の連絡が立て続けに入っていたのだ。
「うん、うん。へえ、そうなんだ」
目は画面のまま。声だけが陽斗の方へ向けられる。陽斗は、話の続きを言おうとして、口を開いたまま止まった。母の顔は、まるで透明な壁の向こうにあるみたいだった。
(あ、まただ。)
胸の奥が、じんわり冷たくなる。怒られたわけじゃない。否定されたわけでもない。でも、陽斗の心には、ひとつの言葉が浮かんでいた。
「ぼくの話って、スマホより大事じゃないんだ」
陽斗の幼なじみ、紗良(さら)の家。こちらも夕飯の支度の真っ最中で、玉ねぎの甘い匂いが部屋いっぱいに広がっていた。
「お母さん、今日ね、学校でね!」
紗良が声をかけた瞬間、母の恵里は手を止め、スマホをぱたんと裏返してテーブルに置いた。
「なにがあったの。聞かせて」
恵里は、紗良の目をまっすぐ見た。その瞳は、まるで「あなたが一番大事だよ」と言っているみたいだった。紗良は、嬉しそうに、今日の出来事を全部話した。給食のこと、友達のこと、体育で転んだこと。恵里は、時々うなずきながら、紗良の言葉を一つもこぼさないように受け止めた。
学校の教室
担任の北村先生は、最近気になっている子がいた。陽斗だ。授業中に質問しても、返ってくるのは「別に」「普通」。以前はもっと話してくれたのに、最近は口数が減っていた。ある日、北村先生は保護者面談で美咲に尋ねた。
「陽斗くん、家ではどんな様子ですか」
美咲は少し困った顔をした。
「最近、あまり話してくれなくて…。私も仕事の連絡が多くて、ついスマホを見ながら返事しちゃうんですけど」
その瞬間、北村先生は、陽斗の沈黙の理由が、ふっと腑に落ちた。その日の夕飯は、陽斗の大好きなザンギだった。美咲は、ふと北村先生の言葉を思い出した。陽斗が箸を置き、口を開いた。
「今日ね、学校で」
美咲の手が、反射的にスマホへ伸びかけた。けれど、そこでぴたりと止まった。そして、ゆっくりとスマホを裏返し、テーブルの端に置いた。
「ごめんね。陽斗の話、ちゃんと聞きたい」
陽斗は、驚いたように目を丸くした。その目が、少しずつ、少しずつ、温かい光を取り戻していく。
「えっとね……。今日、図工でね、すごいの作ったんだよ!」
陽斗の声は、久しぶりに弾んでいた。美咲は、うなずきながら、笑いながら、陽斗の言葉を一つ残らず受け止めた。その夜、陽斗は布団に入ると、胸の中がぽかぽかしていた。
「今日は、ちゃんと聞いてもらえた」
それだけで、世界が少し優しくなった気がした。
人は環境で変わる
子どもの自己肯定感は、特別な習い事でも、高価な教材でも育たない。スマホを伏せて「聞かせて」と言う、その小さな動作の積み重ねで育つ。陽斗の家では、あの日から、夕飯の時間だけはスマホを裏返すことが家族のルールになった。そのたびに、陽斗の声は少しずつ大きくなり、表情は豊かになっていった。
そして美咲は、ある日ふと気づく。
「陽斗の話って、こんなに面白かったんだ」
それは、スマホ越しでは絶対に気づけなかったことだった。
ティラノザウルス②へ続く

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