墓掃除②
エアロビクススタジオの鏡は、朝の光を反射してまぶしかった。まだ誰もいない広いフロアに、私の足音だけが響く。私は当時、二十代に入ったばかりだったが、身体はまだ軽く、音楽に合わせて動くと、心までスッと整っていくようだった。
エアロビクス・インストラクター
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| ルミさん |
その日のレッスンは、午前の初級クラス。常連の主婦たちと、仕事前に汗を流しに来る会社員、そして、毎回必ず質問してくる男性ミノルさんがいた。レッスンが始まってすぐ、ミノルさんが手を挙げた。
「先生、なんでこの動き必要なんですか?」
私は笑った。今日も来たな、この質問。
「ミノルさん、これはね、膝を守るための動きなんですよ。勢いで踏み込むと膝に負担がかかるから、先に体重移動しておくの」
「なるほど膝のためか」
ミノルさんは納得すると、誰よりも丁寧に動きを守った。私はその姿を見るのが好きだった。一方で、何も聞かずに従っているように見える人もいた。その日のクラスにも、黙々と動いている女性アヤさんがいた。彼女はいつも真面目で、注意されたこともない。でも、レッスン後のスタジオの隅で、私は見てしまった。アヤさんが、ストレッチを飛ばして帰ろうとしているところを。
「アヤさん、ストレッチしないと明日痛くなりますよ」
「あ、大丈夫です。時間がなくて」
私はその言い方に、どこか怒られたくないという気配を感じた。ああ、この人は理由じゃなくて罰で動いてきた人だ。そう思った。レッスン後、ミノルさんが声をかけてきた。
「先生、今日の説明、分かりやすかったです。理由が分かると、守りやすいですね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「僕、昔から理由を知りたいタイプなんですよ。子どもの頃、親になんで?って聞くと怒られてましたけどね」
ミノルさんは笑った。
「でも、理由を知ると、自分で判断できるようになるじゃないですか。それが好きなんです」
私はその言葉を聞いて、胸の奥がじんわり温かくなった。その日の夕方、スタジオの受付でアヤさんが泣いていた。
「どうしたの?」
「すみません。最近、家でルール破ったら罰って言われ続けてて。なんか、息が詰まって」
私はそっと隣に座った。
「アヤさん、ルールってね、怒られないために守るものじゃないんだよ」
アヤさんは涙を拭きながら、私の方を見た。
「じゃあ、なんのために?」
「自分の身体を守るため。自分の未来を守るため。そのためにあるんだよ」
アヤさんはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「そういうふうに考えたこと、なかったです」
その日の帰り道、私はスタジオの鍵を閉めながら思った。人は、理由を知れば変われる。ミノルさんのように、理由を理解して動く人は強い。アヤさんのように、罰で押さえつけられてきた人は、ひとの目がないところで苦しくなる。
そして私は、その違いを何度も見てきた。エアロビのスタジオで。鏡の前で。汗を流す人たちの中で。その経験が、今の墓掃除の仕事にもつながっている。
ルールは、叱られて守るものじゃない。理由を知って、納得して、自分で選んで守るものなんだ。私は夜風を吸い込みながら、静かにそう思った。
ルミさんのその後
ルミさんは、あの大騒動のあと、しばらくは「私、もう静かに暮らすわ」と宣言していた。しかし、周囲の誰もが知っていた。ルミさんが静かに暮らすと言ったときほど、静かになった試しがないことを。
ある日、ルミさんは100円ショップで買った分厚いノートを抱えて帰ってきた。表紙には大きくマジックで、「ご近所の謎を解くノート」と書いてある。
「いや、探偵になるつもりはないのよ。ただ、気になるのよ。あそこの家の洗濯物、毎週木曜だけやたら多いのよねぇ」
家族は止めた。しかしルミさんは止まらない。
結果、ノートは謎というよりどうでもいい観察記録で埋まっていく。
- 「向かいの奥さん、犬に話しかける声が赤ちゃん言葉。かわいい」
- 「隣の高校生、最近前髪を切った。失恋かしら」
- 「郵便屋さん、今日はちょっと疲れてる。がんばれ」
もはやただの応援日記である。
そんな観察ノートを持ち歩いていたせいか、ルミさんは気づけば地域の人に声をかけられるようになった。
「ルミさん、今日もノート持ってるのね」
「ええ、あなたのことも書いてるわよ。褒めてるから安心して」
この褒めてるから安心してが妙に評判になり、気づけばルミさんは、褒めてくれるおばちゃんとして地域の人気者に。商店街の人たちが、ルミさんを見ると自然と笑顔になる。ルミさん自身も、誰かに話しかけられると嬉しそうに胸を張る。
以前は家族に心配をかけることが多かったルミさんだが、最近は「今日ね、こんな素敵な人に会ったのよ」と、誰かの良いところを嬉しそうに話すようになった。家族は気づく。ルミさんは、誰かを観察しているようで、実は人の良いところを見つける天才なのだ。そのおかげで、家の中の空気も少し柔らかくなった。ルミさんが笑うと、家族もつられて笑う。以前よりも、みんながルミさんを面白い存在として受け止められるようになった。
最近、ルミさんには密かな夢がある。
「私ね、褒め言葉だけの新聞を作りたいのよ」
家族は驚いた。
「だって、世の中って褒められること少ないじゃない。だったら私が褒める新聞を作ればいいのよ。名前はそうね、ほめほめ通信なんてどうかしら」
家族は笑ったが、ルミさんは本気である。ノートにはすでに、
- 「ほめほめ通信創刊号:郵便屋さんの笑顔特集」
- 「第二号:商店街の八百屋さん、今日の大根は最高」
などの案がぎっしり。誰も止めない。むしろ、ルミさんが何かを始めると、家族はちょっと楽しみになってきている。
ルミさんは、事件を起こす人から、人を笑顔にする人へ、静かに進化している。でも、相変わらずちょっと抜けていて、周囲を巻き込みながら、今日もどこかで誰かを褒めている。
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