心電図

県立病院の循環器内科に勤めるマサコは当時、27歳。県内の国立大学医学部を卒業し、初期臨床研修という荒波を乗り越え、そのままこの病院の循環器内科に残った。心臓を守る女医といえば聞こえはいいが、現実はもっぱら心電図とカテーテルに振り回される日々だ。手術やカテーテル検査の場では、メスを持つ手の震えを必死に隠してクールな女医を演じているし、複雑な心電図の波形を読み解くのは謎解きみたいで嫌いじゃない。ところが、機械となると話は別だ。特にペースメーカの設定や異常検出の画面を見ると、脳内に砂嵐が走る。

不整脈チームは貧乏くじ?

心電図
心電図

「マサコ先生、今日もペースメーカ外来、よろしくね」

先輩医師に爽やかに言われるたび、マサコは心の中で(出た、悪魔の囁き)と毒づく。

循環器内科には三つの派閥がある。「高血圧チーム」「不整脈チーム」「虚血性心疾患チーム」。

入局当時、何も知らないマサコは教授から「君、不整脈チームでいいな? いいね?」と、有無を言わさぬ圧で配属を決められた。後になって歴代教授がみな「高血圧チーム」出身で、出世コースの王道だと知ったときの衝撃たるや。

「ああ、私は見事に貧乏くじを引いたんだな」

悟ったマサコが実家でぼやくと、夕飯のコロッケを揚げていた母が言った。

「あんた、商店街の福引でも毎回ポケットティッシュしか当てないものねえ」

「お父さんなんか、お前が生まれたとき、女の子だ!って喜んで抱き上げたら、盛大におしっこかけられたぞ。あれも貧乏くじだったのかなあ」

新聞を読んでいた父が参戦し、マサコは「娘をおしっこと一緒にしないで!」と叫ぶのが精一杯だった。

ある日のペースメーカ外来。

診察室に入ってきたおじいさんが、深刻な顔で胸元のポケット(ペースメーカーの埋め込まれた皮膚の膨らみ)を指さした。

「先生、ちょっとええか。この機械、Wi-Fiにつながっとるんか?」

マサコはカルテを打つ手を止め、数秒フリーズしたのち、真面目な顔で答えた。

「いえ、インターネットにはつながってませんよ」

するとおじいさんは、さらに声を潜めて言った。

「ほな、ワシがこっそり演歌を聴いても、病院にはバレんのじゃな?」

「音楽プレーヤー機能もついてません」

横にいた看護師がププッと吹き出し、肩を震わせている。

おじいさんは「なんじゃ、孫のゲーム機より使えんなあ」と残念がり、「でもまあ、ハッキングされんだけ安全か」と妙に納得して帰っていった。

その夜、不整脈チームの飲み会があった。

ビールですっかり出来上がった先輩医師が、ジョッキを掲げて熱弁を振るう。

「いいかお前たち! 俺たちは患者の心臓のリズムを整えるんだ。それはつまり、患者の人生のリズムも整えてやるってことだ! かっこいいだろ!」

マサコは冷めた焼き鳥をかじりながら、即座に返した。

「じゃあ先輩、私の乱れきった生活リズムも整えてください。あと、婚期のリズムも」

一瞬の静寂の後、店中が大爆笑に包まれた。「それはペースメーカじゃ無理だ!」「除細動器でも持ってこい!」とヤジが飛ぶ。

帰宅後、まだ起きていた母に「今日もペースメーカの設定で脳みそがショートした」と愚痴ると、母はお茶をすすりながら笑った。

「あなた、昔から目覚まし時計の設定も苦手だったものね。セットしたのに鳴らなくて、遅刻して泣きわめいてたっけ」

そこへ父が風呂上がりで現れ、「お前、オーブンのタイマーもよく間違えて、パンを黒炭にしてたな。錬金術だって言ったら怒ってたけど」と追い打ちをかける。

「もう、私のリズムを乱すのはお父さんとお母さんよ!」

マサコの抗議もむなしく、リビングは笑いに包まれた。

未熟な技術と、容赦ない家族。マサコの日常は、不整脈のように予期せぬ拍動を繰り返しながら続いていく。

廊下の業者と伝説のインターホン事件

県立病院のカテ室前の廊下は、ある種の情報交換の場だ。

カテーテル検査やアブレーション手術、ペースメーカ外来の日には、医療機器メーカーの担当者が待機している。

その中に、マサコが気になっている人物がいた。30代後半とおぼしき男性。細身のスーツを着こなし、いつもアンニュイな表情で壁に寄りかかっている。

ある日、マサコは意を決して彼に声をかけた。

「あの、すみません。古いペースメーカのチェックで出てくるリフラクトリーって設定、あれ何なんですか? 呪文ですか?」

彼は驚いたように顔を上げたが、すぐに人の良さそうな笑みを浮かべ、メモ帳を取り出した。

「ああ、あれですね。簡単に言うと、ペーシングした後のノイズを感知しないための目隠し時間のことですよ。いわば機械にとっての見て見ぬふりタイムですね」

「見て見ぬふりタイム?」

「そうです。余計な情報を拾ってパニックにならないよう、あえて無視するんです」

マサコは思わず笑ってしまった。

「人間関係にも必要な機能ですね、それ」

「ですね。ちなみに、通常はノミナール設定(出荷時設定)で十分です。いじる必要はありません」

彼はにこやかに、しかし的確に教えてくれた。その姿は、まるで頼れる指導医のようだった。

その夜、食卓でマサコが得意げに話した。

「ペースメーカにはね、見て見ぬふり機能があるんだって」

父が味噌汁を吹き出しそうになった。

「なんだそれ。サラリーマンの処世術か?」

「違うわよ、リフラクトリーっていうの」

「へえ、欲しいな、その機能。母さんが新しい服を買ってきた翌月のカード明細書に対して発動させたい」

「あら、私だって持ってるわよ」と母が割り込む。「お父さんが休日にゴロゴロしてる姿を見ると、自動的にリフラクトリー期間に入って視界から消してるの」

「俺はノイズ扱いか!」

マサコは「我が家の設定は複雑すぎるわ」とため息をついた。

後日、マサコとカテ室の看護師がストレッチャーを運んでいたときのこと。

廊下が狭かったため、看護師が声を張り上げた。

「すみません、通ります!道を開けてください!」

壁際で待機していた例の物知り営業担当が、ビクッとして慌てて避けようとした。

その動きは、まるで油を注されたブリキのおもちゃのようだった。

彼は背中で壁を探り、勢い余って背後にあったボタンを背中で押し込んでしまった。

(ピンポーン)

「はい、CCUです。お名前をどうぞ。」

廊下に響き渡る無機質な応答。

看護師が「あっ、すみません! 間違いです!」とインターホンに向かって叫ぶ横で、犯人の彼は顔面蒼白で石像のように固まっていた。

マサコはとっさに助け船を出した。

「すみません、私が肘で押しちゃいました!」

CCU側の「気をつけてくださいよー」という呆れた声と共に通信が切れる。

彼はガチガチに固まったまま、無言で、しかし直角に近い角度で深々と頭を下げ、逃げるようにその場を去っていった。

「あー、もうっ、びっくりした」と看護師はイラついていたが、マサコは遠ざかる彼の背中を見ながら心の中でつぶやいた。

(営業さんにしては、心臓のポンプ機能が弱すぎない?)

その日の夕方、医局で上司が「あの山木さん、今日も来てたね」と話しているのを耳にした。

「えっ、あの方、山木さんっていうんですか?」

「そうだよ。機械の知識は教授級だけど、気が小さいのが玉に瑕でな」

以来、彼を心の中で「山木さん」ならぬ「山木先生」と呼ぶようになり、廊下ですれ違うと会釈をする仲になった。

そんなある金曜日のペースメーカ外来。

長年通院しているおばあさんが、ふと寂しそうに尋ねた。

「先生、この機械とも長いつきあいだけど、私が死んだときはどうなるんかのう? 棺桶の中で動き続けたら、なんか申し訳なくて」

マサコは答えに窮し、ちょうど部屋の隅にいた山木さんを振り返った。

山木さんは、少し困った顔をしながらも、優しく口を開いた。

「そうですね、でも、不思議なことに、ペースメーカが入っている方のほうが長生きされてるような気がしますよ。機械も止まりたくないって頑張るんでしょうね」

医学的根拠はゼロだが、妙に説得力のある言葉だった。

「ほんなら、もうちっと長生きしてやるか」とおばあさんは笑い、外来は温かい空気に包まれた。

(やるじゃない、山木さん)

マサコが見直したその直後、山木さんは退室しようとしてドアノブに袖を引っ掛け、一人でアタフタしていた。やっぱり「リフラクトリー(見て見ぬふり)」が必要な人だ。

ゴルフ・アブレーションとすれ違う恋

春。病院の組織改編があり、心臓外科と循環器内科が統合され循環器センターが発足した。

名前はかっこよくなったが、やることは変わらない。むしろ、外科医からの「内科の先生もオペに立ち会ってよ」という無茶振りが増えただけだ。

センター発足記念の合同食事会。

普段はマスクと手術着でしか顔を合わせない臨床工学技士の山田くんが、ビールの勢いで暴露話を始めた。

「そういえばこの前のコンペ、メーカーの山木さんも来てたんですよ。いやぁ、あれは凄かった」

マサコは身を乗り出した。「え、山木さんってゴルフするの?意外」

「それがですね、ボールが右へ左へと、検査技師風に言うなら多源性心室性期外収縮でしたよ」

テーブルの全員が吹き出した。

「あっちこっち飛ぶってこと?」

「ええ。ティーショットで思い切りダフって芝生をめくり上げたときは、みんなでナイス耕作! 農業転向か!って叫びました」

マサコは脳内で、山木さんが真剣な顔でクラブを振り下ろし、ボールではなく地面を掘る姿を想像した。

「機械の説明はあんなに精密なのに」

「しかも」山田技師は続ける。「カートに乗ろうとして、何もないところでつまずいて、一人でバンカーに転がり落ちたんですよ。自らハザードに入っていくスタイルって伝説になってます」

(気が小さい上に、運動神経も不整脈なのか?)

マサコの中で、山木さんの好感度は頼れるプロから放っておけないゆるキャラへと変わっていった。

そんなある日、学会でのポスター発表。

マサコが作成したスライドには、自信満々にこう書かれていた。

『患者のQOL向上と、心臓のリズム感の改善』

通りかかった教授が足を止めた。

「マサコくん。リズムはわかるが、リズム感を改善してどうするんだ? 患者さんをダンサーにでもするつもりか?」

マサコは顔から火が出るほど赤くなった。「ご、誤変換です!」

教授はニヤリと笑い、「ま、リズム感なら山木さんに任せたらいい。ゴルフのリズム感は最悪だがな」とジョークを飛ばし、周囲のドクターたちがドッと湧いた。

マサコは「教授まで山木さんネタにするんですか」と脱力したが、おかげで緊張が解けたのも事実だった。

済生会病院への転勤、そして

循環器センターができてから10年。

マサコは中堅医師として、ペースメーカ埋め込みの術者もこなすようになっていた。

だが、医局内のドロドロした権力争いには興味がない。出世より定時退社をモットーにしていたマサコは、少し医局の監視が緩い済生会病院への転勤を希望し、受理された。

山木さんとは、廊下ですれ違えば「あ、どうも」と挨拶する程度の関係のままだった。

彼は相変わらず、病院のじゅうたんの小さな段差でつまずいていたし、自動ドアに反応されずにぶつかりそうになっていた。

どこかネジが一本足りない感じが逆に魅力なのかもしれないが、マサコも仕事に忙殺され、それ以上の進展はなかった。

県立病院での最後の出勤日。

臨床工学部の部屋を覗くと、山木さんが新人技師たちに説明会を開いていた。

「いいですか、この機械は心臓のリズムを整える大事なものです。常に冷静に」

そう言った直後、彼は指示棒を落とし、拾おうとして机の角に頭をぶつけた。

「常に冷静に対処してください」

涙目で続ける彼に、新人たちが必死で笑いをこらえているのが見えた。

マサコは心の中で別れを告げた。

(さようなら、山木さん。あなたの不整脈な日常が、私の癒やしでした)

実家で転勤の報告をした夜。

「済生会病院ねぇ」と母が感慨深げに言った。「名前からして済んだことを生かす病院みたいね。あなたの失敗だらけの人生も、そこで生かされるといいけど」

「お母さん、それどういう解釈?」

父がビールを注ぎながら茶々を入れる。

「まあ、お前は仕事ばっかりで、恋愛の方は済んですらいないけどな」

「うるさいなあ!今はキャリアが恋人なの!」

「ほう、その恋人は随分と手厳しいな。毎日呼び出し電話かけてくるんだろ?」

「うっ」

言い返せないマサコを見て、両親は楽しそうに笑い合った。

レトロ家電と新たな戦い

済生会病院での日々は、新しい敵との戦いだった。

地域医療の砦であるこの病院には、近隣の診療所から多くの高齢者が紹介されてくる。その中には、博物館級の古いペースメーカを入れた患者が少なからずいた。

「先生、大変です」

工学技士が青ざめた顔で走ってきた。

「この患者さんの機種、メーカーがとっくに日本から撤退してます! マニュアルもありません!」

マサコは叫んだ。「えっ、どうすんの!?ググっても出てこないの?」

結局、倉庫の奥からカビ臭いペースメーカー年鑑という本(各社のペースメーカの概要が書かれている百科事典のような本)を引っ張り出し、埃まみれになって対応することになった。

ある患者のペースメーカは、25年物の四半世紀超えの長寿命タイプ。

チェック用の機械(プログラマー)をつなぐと、今どき聞かない「ピーーッ! ガガガッ!」というモデムのような接続音が響いた。

技士がポツリと言った。「先生、これ、電子レンジの音ですかね?」

マサコは真顔で返した。「心臓をチンしちゃダメよ。解凍モードになってないか確認して」

診察台の患者さんが身を乗り出した。「先生、わしの心臓、熱燗みたいになるんか?」

「なりません!冗談ですから!」

診察室はちょっとした漫才劇場のようになり、緊迫した空気は霧散した。

地域の開業医との連携会議。

強面(こわもて)の先生たちがずらりと並ぶ中、ある医師が発言した。

「うちの患者さん、ペースメーカのことを心臓の目覚まし時計って呼んでましてね」

マサコはチャンスとばかりに手を挙げた。

「わかります。私も設定が苦手で実は私、昔は自分の目覚まし時計の設定もよく失敗して、遅刻常習犯だったんです。だから患者さんの気持ち、痛いほどわかります」

会場が一瞬静まり返り、次の瞬間、ドッと爆笑が起きた。

「先生、それは医者としてどうなの!」「いや、正直でよろしい!」

会議後の懇親会では、マサコの周りに人だかりができた。

その夜、久しぶりに実家に帰ると、母が「今日はどうだった?」と聞いてきた。

「うん、25年前のペースメーカと格闘してきた。まるで昭和の家電よ」

母は笑いながらご飯をよそった。

「あなた、昔から古いものを捨てられない子だったものね。部屋の学習机、まだ小学生の時のシール貼ってあるし」

父がテレビを見ながら言った。

「お前、ビデオデッキの予約録画も一度も成功しなかったな。毎週予約にしたつもりが、毎日同じ時間に時代劇が録れてたっけ」

「もう、その話はやめてよ!私は今、最先端医療の現場にいるんだから!」

「最先端の現場で、昭和の機械を叩いて直してるのか?」

「叩いてないわよ!」

マサコは知らず知らずのうちに、苦手だった機械も、厄介な人間関係も、笑い話に変える術(すべ)を身につけていた。

完璧な医師にはなれないかもしれない。でも、この不器用なリズムこそが、患者や家族、そして自分自身の心臓を温かく動かしているのだと、マサコは少しだけ胸を張れるようになっていた。山木さんのように。

笑いとリズムのある日々

済生会病院での勤務も数年が過ぎ、マサコは循環器内科医としてのキャリアを振り返る時期に差しかかっていた。学会発表や手術の経験を積み重ね、若い頃に苦手だったペースメーカの設定も、今では後輩に教える立場になっている。

「先生、リフラクトリーって何ですか?」と新人医師に聞かれると、マサコはかつて山木さんに教わった図解を思い出しながら、少し誇らしげに説明する。あの廊下でのやりとりが、今では自分の知識の一部になっているのだ。

ある日、病棟で患者のおじいさんが「先生、わしの心臓はまだリズム感あるか?」と尋ねてきた。マサコが「もちろん、演歌のリズムくらいはばっちりですよ」と答えると、隣のベッドのおじいさんも「ワシはジャズがええがの」と割り込んできて、病室はちょっとした音楽談義に。看護師が「じゃあ次のカンファは合唱大会ですね」と冗談を言い、場は笑いに包まれた。

家に帰れば、母が「あなた、昔からリズム感なかったものね」と笑い、父は「お前、盆踊りで逆方向に回ってたな」と茶々を入れる。食卓はまた笑い声で満ち、マサコは「まあ、心臓のリズムさえ整っていればいいのよ」と肩をすくめた。

マサコは、医師としてのキャリアを積み重ねる中で、笑いとユーモアを忘れずに歩んできた。山木さんとの偶然のやりとりも、家族との温かい会話も、すべてが彼女の人生のリズムを形づくっている。

苦手だったことも、失敗したことも、笑いに変えて前へ進む。そうして築かれた日々は、患者や仲間、そして家族との絆に支えられたものだった。

マサコの物語は、循環器センターの春から済生会病院での挑戦まで、いつも笑いとリズムに彩られていた。そしてこれからも、彼女の人生はユーモラスで温かい拍動を刻み続けていくのだ。

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