なぐさめる
コウイチ、45歳。彼が所属する大企業の人事部。そこは、人の能力を数値化し、キャリアを体系的に管理する、極めてロジカルな部署だった。長年の経験で、彼はどんなトラブルも適切なマニュアルと合理的な手順で解決してきた。
難題
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| コウイチ、45歳 |
しかし、先日、彼の長年にわたる平静を揺るがす出来事があった。
新入社員のサトウくん(22歳、経理部)が、配属後初の大型ミスで落ち込み、コウイチの席にやってきたのだ。
「先輩。あの…」
「どうしたんだい、サトウくん」
「あのぉ、ご存知だとは思いますが、実はですね」
泣きそうな顔で、サトウくんは絞り出した。
「先月の請求書の話、お聞きになられているかもしれませんが、なんというか、実はですねぇ」
「いや、聞いてないけど、心配なことがあるならいってごらん」
サトウくんは続けました。
「相殺ミスをやっちゃったんです」
「相殺ミス?どういうこと?」
相殺ミス(そうさいミス)とは、ビジネスや会計の文脈で使われる言葉で、支払いや債権債務を精算する際に、本来適用すべき相殺処理が正しく行われなかったり、見落とされたりする誤りを指します。具体的には、取引先A社に対して売掛金(受け取るべきお金)と買掛金(支払うべきお金)の両方がある場合、これらを相殺して差額のみを精算すべきところを、それぞれ個別に全額支払い・受け取りとして処理してしまう場合や、契約書に相殺禁止特約が定められているにもかかわらず、誤って相殺処理を行ってしまう場合などがあります。Google検索より
そんなことは、知ってるよという顔でコウイチは聞き続けていたが、実際のところ経理についてはズブの素人だ。コウイチはあくまで人事部なのだから。
ことの顛末を含めて30分以上聞き役に徹していたコウイチだったが、サトウくんの方もいつまでもよその部署で油を売っているわけにもいかない。最後に彼は、こういったのだ。あくまでも恋愛感情ではない。
「先輩、すこしは慰めてくださいよ」
コウイチの頭の中で、非常ベルが鳴った。
(慰める?)
彼の思考はフリーズした。これまで、彼は問題解決してきたプロだが、慰めるという行為を意識的に行ったことがなかったから。
コウイチの頭の中は、このような演算が即座に行われた。
コウイチの演算回路
- 問題解決の方法:サトウくんのミスを分析する。再発防止のためのチェックリストを作成する。上司への報告書を作成し、事態の収束を図る。よって、→(結論)ミスの解決はできる。
- 慰めるの場合:何をすれば?具体的にどのような手順がある?KPIは?
KPIとはKeyPerformance Indicatorの略で、最終的なゴールを達成するために必要な、中間的なプロセス目標を数値化したものです。《例》: 「年間売上1,000万円」という最終目標(KGI)を達成するために、「年間受注数500件」や「新規顧客獲得数月50件」といったKPIを設定します。Google検索より
彼は、慰めという感情的な領域に踏み込むためのマニュアルも手順も持ち合わせていなかったのだ。
「あ、ああ。サトウくん。君の、その感情的な、ええと、リカバリーは、その、具体的に、何をもって完了とするんだい?」
「え?」サトウくんは涙目になったまま固まった。
コウイチは慌てて、デスクの引き出しから栄養ドリンクを取り出し、差し出した。
「と、とりあえず、栄養補給だ!君の落ち込みは、もしかしたらエネルギーの欠乏から来ているのかもしれない!これを飲んで、ロジカルな思考を取り戻したまえ!」
サトウくんは栄養ドリンクを両手で受け取り、困惑した表情で休憩室を離れていった。
「結局、何をすればよかったんだろう。慰めるって、どういうことだろう?」
コウイチの、慰め探求の旅が、こうして幕を開けたのでした。
共感の技術
コウイチが慰めの定義に悩み始めて数日後の土曜日の午後。
リビングでは、妻のミナミ(44歳、専業主婦)が、友人からかかってきた電話で愚痴を聞いていた。
ミナミの友人は、夫との些細な喧嘩で気分が落ち込んでいるらしかった。
コウイチは、ソファーで英字新聞を読んでいるふりしながら、ミナミの慰めテクニック?を分析することにした。
観察メモ
「あら、大変だったね。まずはお茶飲んで。私なら絶対許せないわ、その件は!」
「うんうん、それで?」「それは辛かったね」
「でもね、あなたの良いところは」
電話を切ったミナミは、ふぅ、と一息ついた。
英字新聞の向こう側でシステム手帳を広げていたコウイチは、気づいたことを密かにメモしていた。
そこには人事部としての基本的な専門用語が並んでいた。
まずは、共感・同調だ。
相手の感情レベルに合わせることで、心理的なバリアを下げる。
最初からロジカルな解決策を提示しないことを意味する。
その脇に(重要)と書かれて、傾聴フェーズに丸がついていた。
「うんうん、それで?」「それは辛かったね」のところにも専門用語があった。
反復・相槌。それに、 相手の言葉の繰り返し(ミラーリング)にも、丸がついて重要と書かれていた。
これらは、きっと話を聞いているよと、相手にわからせるために差し出したミナミの合図だったのだろうとコウイチは思った。
感情の受け取りに専念しているフェーズだ。
そして、最後に解決策提示。
「でもね、あなたの良いところは」と、友人の良い点をいくつか挙げた。
さすが人事部のヨメだけのことはある。
こういうのは専門用語的にポジティブな側面からの再評価という。
落ち込んだ原因とはたぶん関係ないが、相手の自己肯定感を高めているに違いない。
コウイチは新聞を畳み、ミナミに近づいた。
彼の顔は、まるで複雑な数式を解き明かした学生のように真剣だった。
「ミナミ、今のは慰めの手順として非常に優れていた。
特に共感と同調の段階で、
君は私なら絶対許せないと、相手の怒りの感情を代行して発言した。
これは、相手の負の感情を外部化させる効果があるのか?」
ミナミは目を丸くしてコウイチを見た。
「おねがいだから会社っぽく喋らないでくれない」
「そ、そうか、くせになってたかな、わるいわるい」
「何言ってたの、コウイチ。
ダイコー?ガイブカ?
そんな大層なことじゃないわよ。
友達が辛そうだったから、そうだよね、わかるよって言っただけ。
だって、そういわなきゃ、話なんて聞けないでしょ?」
「そういわなきゃ、ねぇ」コウイチは呟いた。
「コウイチはすぐに、それはね、こうすれば良かったんだよって結論を出したがるけど、落ち込んでいる人は答えが欲しいんじゃないの。
ただ、わかってほしいだけなのよ。
答えは、その人の心の中にあるんだから」
コウイチは立ち尽くした。
(わかってほしい?しかし、理解するためには、まずデータが必要なのでは?)
慰めとは、ロジックではなく、感情の共有から始まるらしい。
コウイチの頭の中の慰めマニュアルの第一項目が、早くも書き換えられることになった。
慰めとは
コウイチは、妻ミナミから学んだ感情の共有という概念を胸に、改めて慰めについて考えてみた。
会社で彼は自分の机に戻り、一枚の紙に暫定的な結論を書き出した。
慰めの暫定的な定義
- 慰め:相手の感情を自分の共感で増幅/共有する作用があるもの
- ディストラクション(Distraction)=気を紛らわせる行為(栄養ドリンク、あるいは優しい声かけ)/「わかるよ」
「ディストラクション」は、英語のdistractionから来ており、気を紛らわせることや注意散漫といった意味です。特に医療現場では、子どもが医療処置の痛みや不安を感じないように、歌や遊びなどで注意をそらす支援を指します。一方、同じ綴りですが、意味が全く異なるdestruction(ディストラクションと発音されることもある)は破壊や破滅を意味します。Google検索より
(最終的に、感情の共有を行った上で、相手をそのネガティブな感情から一時的に遠ざけるディストラクションが必要だ。
サトウくんに栄養ドリンクを渡したのは、この側面では間違ってはいなかった。
ただし、前提となる相手への共感が欠けていた!)
コウイチの慰め探求はまだ始まったばかりである。
だが、さすが人事部。飲み込みが早い。
物理的な慰め効果
妻ミナミから感情の共有というヒントを得たコウイチは、会社で密かに慰めマニュアルの改訂作業を進めていた。
しかし、相手の感情を自分の共感で増幅・共有する作用という定義だけでは、サトウくんに実践する自信が持てない。
(増幅・共有する?
具体的に、私はサトウくんのネガティブな感情をどういう行動で受け取ればいいんだ?
抱きしめるのか?いや、セクハラだ。
肩を叩く?いや、パワハラと受け取られかねない。
現代の職場において、安全かつ効果的な物理的慰めは存在しないのか?)
ロジカルなコウイチにとって、感情とは数値化できない厄介な代物だが、行動は数値化できる。
彼は、慰めのプロトコルに物理的な要素を組み込む必要性を感じていた。
この週末、彼はそのヒントを、思わぬところから得る事になる。
娘の転倒
日曜日の午後、コウイチは小学3年生の娘、ヒナ(9歳)の自転車の練習に付き合っていた。
ヒナは補助輪を外したばかりで、慎重にペダルを漕いでいる。
「ヒナ、重心をもう少し内側に寄せろ!
体幹のブレがパフォーマンスの低下を招いているぞ!」
コウイチの熱心な指導の甲斐なく、ヒナはカーブでバランスを崩し、派手に転倒した。
「いっ、痛いぃぃ!」
ヒナは自転車を放り出し、膝を抱えて大声で泣き出した。
コウイチは反射的に、人事部として完璧な事後対応を取ろうとした。
「ヒナ、冷静になれ!
まず、怪我の状態を視覚的に確認する!
そして、君の今の感情を言語化しなさい!
痛いのか、悔しいのか、どちらだ!」
とはいわなかった。
もちろん、子どもに対する慈愛溢れる言葉で、
「だいじょうぶか?」
といっただけ。
ヒナは泣きじゃくるばかりで、何も答えない。
コウイチは自分のロジカルなアプローチが、
全く機能していないことにも、やるせない焦りを感じた。
その時、後から様子を見に来ていたミナミが、颯爽と駆け寄った。
「ヒナ〜!大丈夫〜?
ママが来たから、もう大丈夫だよ」
ミナミはコウイチの横を通り過ぎる際、コウイチにだけ聞こえる声で囁いた。
「ぼーっとしていないで、ほら」
ミナミはヒナの隣に座り込み、まず、転倒した拍子に少しめくれた土を、ヒナの服から手で払い落とした。
次に、膝を抱えて丸くなっているヒナの背中を、優しくゆっくりと、一定のリズムでさすり始めた。
ヒナは激しい泣き声から、
「うっ、うっ、」
という嗚咽に変わり、
数秒後にはミナミの肩に顔をうずめた。
ミナミは何も言わなかった。
ただ、優しく背中をさすり続け、ヒナの小さな身体をしっかりと抱きしめている。
コウイチは、その様子をまるで複雑な機械の分解図を見るかのように凝視した。
(な、なんだ?これは)
ヒナが落ち着きを取り戻し、泣き止んだ後、ミナミは立ち上がった。
「よし、もう平気。
ほら、見てごらん。
ちょっと赤くなってるだけ。
絆創膏貼ろうね。
自転車、起こせる?」
ヒナは自分で自転車を起こし、ミナミの手を引きながら家へと向かい始めた。
コウイチは、その場に立ち尽くしたまま、転倒現場の土を眺めていた。
コウイチの発見:非言語的入力
見出しのとおり、どこまでいってもロジックを大切にするコウイチだった。
帰宅後、彼はシステム手帳を広げ、先ほどの出来事を事後分析として記述し始めた。
- 娘の転倒・号泣
- 傍に座り込む→距離の最小化。物理的な距離をゼロにすることで、心理的孤立を解除。
- 服の土を払う手の動き(撫でる)環境ノイズの除去。 現実的な問題(土の汚れ)を排除。これは相手の身体に向けた問題解決。
- 背中をさする接触(タッチ)非言語的入力。継続的なリズムのある接触は、脳に安全信号を送っているのではないか?
これが物理的な具現化というやつか!
コウイチは、閃いた。
慰めは、共有の後に続く、身体への安全信号の入力のことかもしれない?
「そうか!サトウくんは、
言葉だけでは説明できないネガティブな身体反応を経験していた!
それに対して私は、
栄養ドリンクというエネルギーの補給というロジカルな行動は取ったが、
ある意味、正解でもあるし、
こう考えると慰めが足りなかったとしか言いようがない」
コウイチは、娘の転倒と妻の対応から、
慰めにおける物理的な接触と安全信号の重要性という、
ロジカルな行動のヒントを得ることまではできた。
彼が欠いていたのは、相手の身体に直接、
安全と安心を伝える非言語的入力だったのだが、
「背中をさする?」
コウイチは自分の掌を見つめ、
職場でサトウくんの背中をさする想像をした。
(いや、やはりセクハラだ。
人事部の人間として、その行動はリスクが高すぎる)
職場における物理的な慰めは、どうすれば実現できるのか?
コウイチは、背中をさする代わりに、安全で適切な代替行為を探し始めた。
探求と失敗
娘のヒナと妻ミナミから、
慰めには身体への安全信号の入力、
すなわち物理的な要素が不可欠であると学んだコウイチは、
人事部という彼の戦場で安全にそれを実践する方法を模索し始めた。
(背中をさする、抱きしめる、
これらはセクハラ・パワハラのリスクが高い。
代替案として、相手に安心感を伝える物理的な行動を考案する必要がある)
コウイチは、オフィスの一室で一人、研究を開始した。
職場向け・代替的物理的慰め
- 相手の席の横で、静かに腕立て伏せを20回行う
存在感の誇示という意味。私が側にいるここは安全だという非言語的なメッセージを送る。→高リスク。奇行として通報される可能性。筋トレは慰めではない。よって、不採用 - 落ち込んでいる社員に、熱いお茶を差し出し、マグカップを持つよう促す
温覚の利用。熱いものを保持する行為が、手のひらから脳へ鎮静信号を送り、感情を一時的に分散させる。低リスク。単なる気遣いとして処理可能。よって、採用。 - 落ち込んでいる社員の背後に立ち、20cm程度の安全な距離から、優しく「うん」と頷く。
視覚的共感の目的。接触なしで視覚と聴覚から承認のサインを送る。低リスク。ただし、背後に立たれると恐怖感を抱く可能性も。一応、採用にしてみよう。
落ち込むヤマダ主任(33歳、営業部)への実験
コウイチは、試作版プロトコルを実行する最初のターゲットを探した。
そこに現れたのが、営業部のヤマダ主任(33歳)だった。
ヤマダ主任は今期、大型案件を逃し、顔から生気が消えていた。
彼は人事部への報告書提出のため、コウイチのデスクの近くにある共有スペースで溜息をついていた。
(絶好の機会だ。
試案を組み合わせて、安全な物理的慰めを実践する!)
コウイチは立ち上がり、給湯室に向かった。
彼は温かい緑茶を淹れ、蒸気が立ち上るマグカップをヤマダ主任の前にそっと置いた。
「ヤマダ主任、お疲れ様です。これをどうぞ。」
「あ、ありがとうございます」
ヤマダ主任はマグカップを両手で受け取り、
温かさに少しホッとした表情を見せた。
(よし、ディストラクション(気分転換)と鎮静の同時注入に成功!)
次にコウイチは、
もう一つの試案も実行に移した。
コウイチは、ヤマダ主任の背後、20cmの距離に物音を立てずに移動した。
そして、その距離を保ったまま、
まるで遠隔操作するかのように、大げさに頷き始めた。
「うん、うん、うん」
コウイチは心の中で、この非接触・視覚的共感の信号が、ヤマダ主任の脳に届いていることを信じていた。
ヤマダ主任は、背後にいるコウイチの存在に気づき、静かに振り返った。
「先輩?」
彼の顔は、慰められているというよりも不審者に監視されているという感情が色濃く出ていた。
コウイチは、その表情の変化を冷静に分析し、非言語的共感の強度不足と判断した。
彼は、もっと分かりやすく共感しているというメッセージを
物理的に送る必要性を感じた。
慰めは物理的に超電導
コウイチは次の行動に出た。
彼は、自分のマグカップをテーブルに置き、両手を広げた。
そして、ヤマダ主任が空間的に安心できる境界線を示すかのように、
両手で主任の周りの空間を囲むジェスチャーを取ったのだ。
「ヤマダ主任。
あなたの感情の周囲の空間は、私が安全に管理します。
今、この空間にいるのは、あなたと私。
誰もあなたを責める者はいません。
どうぞ、安全な空間で安らいでください!」
コウイチは真面目だった。
彼の頭の中では、接触せずに安心感を伝える人事部向けの画期的な慰めプロトコルだった。
しかし、ヤマダ主任の目には、
コウイチがまるで透明な箱の中に彼を閉じ込めようとしているように見えた。
「ちょっ、先輩、何してるんですか!?
なんか、すごい圧を感じるんですけど」
「圧?これが空間的安全管理のプレッシャーか?
いや、私はただ、非言語的入力を」
ヤマダ主任はサッと立ち上がり、後ずさりした。
「す、すみません!
休憩室で電話がかかってきたので!
失礼します!」
ヤマダ主任は、淹れてもらった熱いお茶を一口も飲まず、
逃げるようにその場を後にした。
コウイチは、またしても取り残された。
彼の顔は、まるで複雑な方程式の解が無限大になったかのように青ざめていた。
(なぜだ?温かいお茶で安心信号を送った。
安全な距離を保ち、視覚的承認を行った。
極めつけに、非接触・空間的安全管理のジェスチャーまで行ったのに。
なぜ圧として認識されたんだ?)
コウイチはそれから暫くの間、
スピリチュアル人事部課長という異名を得た。
距離とタイミング
その日の夜、コウイチはリビングでミナミに今日の顛末を話した。
「結論として、物理的な慰めは、適切な距離を保った上での非言語的承認が必要だという認識に至ったんだが」
ミナミはソファで笑いをこらえながら、
コウイチの肩にそっと手を置いた。
「コウイチ、あなたはね、
慰めを作動させようとしすぎなのよ。
お茶を出すのはいいわ。でも、その後ろでうん、うんってずっと頷いたり、
両手で空気を囲んだりあれは、観察者の行動。
当事者じゃない。」
ミナミは続けた。
「慰めってね、
さっきヒナにしてるみたいに、
触れることが目的じゃないの。
あれは、ただあなたは一人じゃないよって、
最短距離で伝える手段なの。
熱いお茶をそっと渡して、
あなたが2メートル離れた自分の席に戻って静かに仕事をする。
それだけで十分、物理的な安全の信号になっていたはずよ。」
「私の席に戻って?静かに?」
「そう。存在で慰めるの。
変なジェスチャーで監視しない。
そしてね、ヒナの場合は、転んで今すぐ泣いているから、
すぐに接触することが必要だった。
でも、ヤマダ主任は、数時間前に案件を失ったんでしょう?
その負の感情は、すでに内面化されているの。
そこに、急に両手で囲まれたら、そりゃ圧になるわよ」
コウイチは理解した。
物理的な慰めとは、ジェスチャーの複雑さではなく、
適切な距離と、感情の発生時点に合わせたタイミングが重要だったのだ。
コウイチは深く頷いた。
「ありがとう、ミナミ。
これで私の慰めの数式に、
ようやく距離と時間軸という変数を入れることができる!」
「なんだか、あなた今頃、
万有引力の法則を発見したような言い方じゃない?」
そしてコウイチは、次の慰めの機会を探し始めるのだった。
取引先の社長から慰めてくださいとは?コウイチの最終結論
コウイチは、距離とタイミングという新たな変数を手に入れ、
慰めのプロトコルをさらに洗練させていた。
このことは、読者の皆さんにも共有しているつもりですが、
たぶん理解いただけてないことでしょう。
詳しいことはコウイチが勉強したことのある
人事の専門書をお読みになってください。
そんなある日の午後、コウイチの携帯電話に、
取引先の三上葉子社長(47歳、異性)から連絡が入った。
三上社長は、一代で会社を大きくした敏腕経営者であり、
コウイチとは人事制度導入の件で何度も打ち合わせを重ねていた。
コウイチより2歳年上の彼女は、いつもロジカルでエネルギッシュな人物だった。
しかし、その日の声は明らかに疲れていた。
「コウイチさん、ちょっとお時間いいですか。
あの、今、開発の件でトラブルがありまして。
もう、本当に嫌になっちゃった」
「三上社長。それは大変ですね。
すぐに状況を分析し、解決策をリスト化しましょうか?」
コウイチは反射的にそう答えたが、
三上葉子の声に遮られた。
「あ、いや、解決策はもういいです。
コウイチさんのロジックは知ってますから。
そうじゃなくて。
あのね、コウイチさん」
三上葉子は、絞り出すように言った。
「ちょっと、慰めてくださいな」
コウイチの頭の中で、全ての警告灯が赤く点灯した。
(きた!サトウくん、ヤマダ主任に次ぐ、最終試験だ!
しかも、取引先の社長!2歳年上の異性!
これは、最上級のリスクを伴う、最難関の慰めではないか!)
慰めの数式が、猛スピードで回転した。
三上葉子社長の慰め
慰め = F ( 三上葉子社長 , 私 ) X 距離(物理的時間軸的距離)
- 時間軸:トラブルは今発生しているため、即時的な共感が必要。
- 距離: 取引先の社長、かつ異性。接触は論外。物理的な距離を保ちつつ、心理的な距離を縮める必要がある。
- 代替的物理性:非接触で安心感を伝える行動は?
今回のケースで重要なのは、
距離と時間軸、そしてリスクの管理だ。
コウイチは、深呼吸をした。
答えは、まだ持っていない。
「三上社長。わかりました。
ええと、慰めます。
ただ、申し訳ありませんが、
私には慰めるという行為の適切なマニュアルがございません。
もしよろしければ、今から10分間、
私が電話越しに社長の話を聞き、
その後、私の家族のどうでもいい話を
同じ時間だけして差し上げるというのはいかがでしょうか?」
三上葉子は一瞬絶句した後、くすっと笑った。
「コウイチさんらしいですね。
いいですよ。じゃあ、まずは私の話を聞いてください」
コウイチは電話越しに、
三上葉子の愚痴と疲弊を、ただひたすら聞いた。
10分のところが1時間弱にも及んだ。
彼の頭の中には、妻・ミナミの
「わかってほしいだけなのよ」という言葉が響いていた。
息子共在の技術
共在感覚とは、「自分が組織や共同体の一員として共に在る感覚」のことを指す。(人事用語)
三上葉子の話が一段落したところで、
コウイチは自宅での小さな出来事を話し始めた。
「ええと、昨日、うちの小学1年生の息子、リョウ(7歳)の話なんですが」
「リョウは、図画工作で描いた宇宙船の絵が、
他の子の絵よりもずっと地味だと落ち込んでいたんです。
もちろん宇宙船なんて友達みんなが描いたわけじゃないんです。
宇宙はロマンでキラキラしている。
ところが、息子はロケットの推力や燃費効率をロジカルに考えすぎたのか、
派手な色使いを避けたんですね」
コウイチは、リョウの部屋でのやり取りを思い出した。
「リョウ、地味じゃない!
これはリアリズムの追求だ。みんなには理解できなくて当然だ!」
「でも、みんなには暗いって言われた」
コウイチは、リョウの肩を抱きたかったが、
ロジカルな慰めを探した。
「よし、リョウ。この絵に、派手さを加えよう!
メタリック系の絵の具はインパクトがある!
今すぐ買いに行こう!」
リョウは首を振った。
「パパ、僕が本当にしたいのはね、メタリックじゃないの」
「では、なんだ?」
「パパは、ただ見ていてくれるだけでいいの」
コウイチは戸惑いながらも、リョウの隣の椅子に座り、
ただ無言で彼の作業を見守った。
リョウは、何も描かなかった。
ただ、画用紙を眺め、筆箱をいじっていた。
そして、コウイチが座ってから約5分後、リョウは突然、小さな声で言った。
「パパ、僕、やっぱりこの絵が好きだ」
そして、次の瞬間、リョウは筆を取り、
自分が一番気に入っている地味な灰色のロケットの横に、
クレヨン5本で小さな虹色の星を一つ描いた。
共在とは、2つ以上の物事や性質が同時に存在すること、あるいは複数の人々が同じ空間や状況に「ともにある」ことを意味します。具体的には、「古い歴史と新しい文化が共在する国」のように、異なるものが同時に存在している状態を表すこともあれば、会話をしていなくても同じ場所に一緒にいる感覚を表す場合もあります。 Google検索より
ただの共在と小さな変化
電話越しに、コウイチはそのエピソードを話し終えた。
三上葉子は、電話の向こうで静かに息をついた。
「虹色の星、ですか。いい話ですね」
「ええ。息子は、解決策としてメタリックな絵の具ではなくて、
ただ横にいてほしいという実在する信号を求めていたんです。
そして、安全が確保された後で、
自分の中から小さな変化として虹色の星を生み出しました」
コウイチは、三上葉子に語りかけた。
「三上社長。
私は、今、あなたの隣に物理的にいることはできません。
しかし、電話越しで共在しています。
さきほどおっしゃった、
嫌になったという感情を抱えることに論理的な理由はいりません。
どうぞこの安全な空間で小さな変化を見つけるまでの時間を、
私が距離を保って共有させていただきます」
コウイチは、自分の出した結論に、
静かな自信を持っていた。
三上葉子は、今度こそはっきりとした笑い声をあげた。
「ふふ、コウイチさん。
あなたって本当に、変な宇宙人ですよね。
でも、なんだか、あなたの共在、とても効きました」
「そうであれば、光栄です」
「解決策が見つかったわけではありませんが、
なんか、もうちょっと頑張ってみようって思えました」
コウイチは、自分の心の中に、
明確な答えが生まれたのを感じた。
エピローグ
コウイチは、システム手帳の最終ページに、
長年の探求の末に導き出した、慰めの最終定義を記した。
なぐさめとは
慰め=共有 + ( 安全 x 自己 )− 論理
- 共有:感情の共有(共感)。ミナミが教えた「わかるよ」という姿勢。
- 安全:ディストラクション(安全信号)。ヤマダ主任への熱いお茶や、リョウへの「ただ隣にいる」という物理的な共在。
- 自己:内側からの変化。リョウの虹色の星のように、相手自身が慰められた後に生み出すポジティブな力。
- 論理:論理的な解決策の提示の差し引き。慰めとは、解決策を与えることではない。なのでマイナス。
慰めとは、相手が自ら立ち直るための、安全で感情的な共在空間を提供すること。コウイチはデスクで静かに目を閉じた。
(慰める?それは、決してマニュアルやKPIでは測れない、
人間だけが使える高度な能力だったのだ)
その日以来、コウイチはサトウくんや落ち込んでいる社員に対し、
栄養ドリンクや缶コーヒーを差し出す代わりに、
「ああ、それは大変でしたね。
もしよろしければ、私があなたの仕事を見ていますので、
席を外して5分だけ、静かに深呼吸してきてください」
と言うようになった。
そして、彼は、静かに、安全な距離を保って彼らの共在を承認し続けるのだった。
もちろん、三上葉子とのビジネスライクなお付き合いも、
これまで通り平安に続いている。

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